鹿児島の鰹節・削り節パックでおなじみの「ママパック」と、昆布巻・おこわなどの和食ブランド「久光家」の食品製造・加工販売会社。

「鹿児島県 枕崎・山川」を知ろう!!
鰹節・ふるさと紀行「鹿児島県 枕崎・山川」

鰹節のふるさと「枕崎」「山川」は鹿児島県・薩摩半島の南端に位置し、
古くから南の玄関口として栄えた漁港です。その地の利を生かし南西諸島、
さらには沖縄との交流も盛んに行われ、かつおを中心とした漁業が発展してきました。
その中で鰹節の製造も地元の重要な産業になってきました。

             鹿児島県南部
  鰹節は世界で類を見ない日本独特の食品です。
 かつおは赤道を挟んで北緯40度から南緯40度の暖海を回遊し、その一部が小いわしなどのエサを求めて2月の下旬ごろ九州南方の海域にやってきます。特にこのあたりは22〜23度の、かつおが最も好む水温であるため、大群が押し寄せます。その後黒潮にのって日本列島沿岸を北上し、10月頃また南下を始めます。昔は鰹節の呼び名もかつおの漁獲時期によって変化したものです。4〜7月にとれたかつおを原料としたものは春節または、夏節、8〜10月にとれるものは原料とした場合は秋節と呼ばれていました。
 ここで鰹節の歴史をひも解いてみましょう。
       
薩摩の節の歴史
鰹節の歴史は古く、古代にまでさかのぼります。最初に鰹節らしきものが文献に登場するのは
≪古事記≫においてで、「堅魚」の記述がそれに当たります。当時は単にかつおを日に干した
だけだったようです。その後かつおを煮る作業が加わり「煮堅魚」「堅魚煎汁」として、
奈良時代の≪大宝律令≫や平安時代の≪延喜式≫の中に登場します。
また、室町時代に入ると文献に「かつおぶし」の記載が見られることから、この時代に燻乾法が考案され、
鰹節として利用が始まったことが推測されます。さらに戦国時代には、「勝男武士」に通じるところから
縁起物として重宝され、また兵食としても利用されました。



  このような歴史の中で、鹿児島県もまた、古くから鰹節づくりが盛んでした。書物の≪種子島家譜≫の中に、
花鰹の文字が最初に見られることからもそれがよくわかります。品質が高まるのは宝永年間(1704〜1711)頃かで、
紀州の森弥兵衛によって鹿籠(枕崎)に燻乾法が伝えられてからとされます。
  当時の製法は今と違って独特で、枕崎から帆船で南西諸島に出漁すると、「沖いで」といって、船上で半製品にしていました。そのあと、口永良部島、黒島、中之島などで、「島いで」といって、仮説の小屋を設けて加工するようになりました。冷凍技術が無かったことから生み出された方法ですが、質の悪さは否めず、大正時代に入ってから改善がはかられるようになりました。積極的に伝習所を作り、技術者の養成に力が注がれたのです。その結果、製品も著しく改善され、薩摩の節の名声も高まりました。
 今や、枕崎、山川、を主要産地とする薩摩の節は、丁寧な作りによる品質の良さからその名を全国に知られています。
 この地はわが国の最南に位置し、流通面では不利な条件を強いられますが、それを品質の良さで跳ね返したところに発展の源があります。

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